人は、これまで幾つの心象や事象を建造物に換えてきたのでしょうか。
建造物という表現が生まれる前から、人間は「立体的な何か」、
時には構造を、或いは細かな意匠を創造してきました。
その創造力は人々の感性や生理から生まれた深い叡智でした。
そして、それが「技」となり、そして現在私達が知る「技術」となりました。
様々な時代に様々な目的がありましたが、それらを生み出した知性が求め続けていたものの
あらましは「幸せの形」というものではないでしょうか。
人が建造物を造り始めて以来積み重ねられた膨大な時間の重みから考えれば、僅か100年という期間ですが、
その間、私達増岡組はより豊かな環境の創造に力を注いできました。
それは、取りも直さず、先達の技術と叡智に触れながら、
新しい「幸せの形」を模索し続けて来た100年でした。

呉市・広島市と増岡組

厳島神社

瀬戸内海に臨む広島県呉市。風光明媚な土地として知られるこの街は、増岡グループの故郷です。
明治21年、増岡久吉がこの地に「増岡商店」を創立し、明治41年に増岡登作が改組。
今日の増岡グループ発展の基礎を築きました。
増岡組発祥の地であり、歴代社長が生まれ育った呉。そして、政治・経済・文教・交通の中心都市であり、
増岡組と深い縁のある広島。両都市の歴史は、増岡組の歴史を語るうえで欠かせません。

広島市民球場

明治22年7月1日に呉鎮守府が開庁されると、呉には軍人や戦艦が配備され、軍港としての性格を強めていきました。海軍へ商品を納品する御用商人だった増岡商店は、やがて増岡登作持ち前の進取の気性とたゆまぬ努力によって、軍事関係の建設事業にも進出します。
大正13年には第一次世界大戦が勃発し、日本も参戦。呉軍港からも戦艦が出動しました。
増岡商店は、建設事業に不可欠な川砂利に着目し、事業化。昭和に入ってからは、呉市の海軍関係工事だけではなく、岩国、霞ヶ浦等全国で、そして海外に於いても飛行場滑走路をはじめ、数々の軍施設の工事を請け負いました。それを可能にしたのは、増岡登作に対する軍の絶大な信頼と、増岡商店の業績に対する高い評価があったからだと言えます。

呉中央桟橋ターミナル・大和ミュージアム

軍備拡張と軍縮、産業の発達と不況、デモクラシーと文化の発展など、戦乱による急激な時代の変化の波は、日本中に押し寄せました。軍港都市・呉や軍事拠点でもあった広島は、まさにその渦中。昭和6年頃まで、呉は軍縮と不況によって苦しい状況に置かれました。同年の満州事変以後は一時的に、軍港景気に沸いたこともありましたが、空襲や爆撃を受け、ヒロシマを世界に知らしめた原爆投下で、想像を絶する事態に陥ります。そしてかつての軍港都市は占領軍にとってかわられ、昭和20年代前半の呉は、最も混乱を極めます。

呉市役所・呉市公民館

時代の要請でもあった軍関係の仕事を主として来たため、増岡商店は苦難に直面した時期もありました。しかし、呉の戦後復興にいち早く立ち上がり、全社をあげての努力と団結によって会社を再興。
昭和21年、増岡登作は呉商工会議所会頭に就任しました。同年8月に増岡商店納品部が増岡商事株式会社へ、昭和23年1月に同工事部が株式会社増岡組へ、同年11月に同砂利部が中国砂利株式会社へと改組改名。 次代へ向けて新たなスタートを切りました。

広島ゴルフ倶楽部鈴ヶ峰コース

戦後、広島市は平和都市として再生し、呉市も戦前の技術を生かし、変貌を遂げ発展しました。
その様な時代、増岡組は地域の社会資本整備と共に、基幹産業を始めとする様々な建設設備投資に携り、
より豊かな環境の創造に努めるほか、地域の災害にも対応し呉・広島に根差した総合建設業として育ちました。
国宝厳島神社の災害復旧工事に代表される、文化遺産の維持、修復工事にも携り、我国の建築文化を守るという、
重大な使命の一翼を担うことが出来ているのも、増岡組に対する地元の厚いご理解をいただているからにほかなりません。

新座病院

近年、人が健康に生活出来るよう、自然環境との調和が注目されていますが、増岡組は創業の地呉市に環境技術研究所を開設し、技術研究活動を行う傍ら地域交流会も開催しています。この様な地域との歴史的な関係の中、増岡組では地域の信頼に応えるため、新たに近隣地域に支店や営業所を開設するなど、より肌理の細かいネットワークを構築し、各方面のニーズに応えていきます。

丸の内・八重洲と
増岡グループ

Arte哲学堂

東京駅八重洲北口から呉服橋に至る全長200m、延べ66,280m2を有し、一大ビジネスセンターを形成する鉃鋼ビルディング。増岡組を始め、関連各社が同ビル内にオフィスを構えます。戦後間もない昭和24年9月に、株式会社鋼鉃会館を設立し、同ビル建設とともに、東京に進出したことは、その後の増岡グループの発展の契機となりました。
終戦直後の荒廃と混乱の中で鉄骨鉄筋造、地上8階・地下2階の当時としては巨大なビル建設計画でしたが、
増岡商店創立以来、深い関わりのある関係者の惜しみないご協力のもと、無事完成する事が出来ました。
同ビルをめぐる歴史は、現在の東京駅西側の丸の内エリア、東側の八重洲エリアの発展と密接につながっています。

鉃鋼ビルディング

元々東京湾だった丸の内は、天正18年(1590年)、徳川家康が江戸城に入り、城の拡張のための埋め立てで形成されました。江戸城の内堀と外堀に囲まれ、江戸時代には大名屋敷が立ち並んだ地域で、地名は堀で囲まれた内側という意味合いです。明治維新後、官有地となって荒れ野原に変貌した土地を三菱財閥が買い上げ、街がつくられ、
大正12年(1923年)には日本初の複合ビル・丸の内ビルヂング(丸ビル)が誕生。
やがて官公庁や大企業が軒を連ねる日本の中心地として花開きます。

お花茶屋ロイヤルケアセンター

第2次世界大戦後、八重洲口の再開発が始まると、めざましい勢いで復興していきます。昭和23年には外濠の埋め立てが完成し、昭和26年7月には真っ先に第一鉃鋼ビルディングが竣工。昭和29年には第二鉃鋼ビルディングが竣工し、裏口的な存在だった八重洲口がにわかに脚光を浴びます。
昭和29年には、国際観光会館、鉄道会館が竣工、昭和37年には八重洲口広場拡張、東京オリンピックを目前にした昭和39年10月には、夢の超特急・新幹線が開通します。現在では東北・上越新幹線が乗り入れ、成田エクスプレスも開通。日本列島の中枢として、そして国際社会への表玄関として、確固たる存在を内外にアピールしています。

鉃鋼ビルディング

平成14年の新丸ビルを皮切りに、新しいランドマークが続々と登場し、丸の内エリアは一大商業ゾーンとして著しく発展しました。そして八重洲エリアでも再開発が進み、新しい施設も次々と誕生し、大きく変貌を遂げています。増岡グループは、戦後鉃鋼ビルディングを通して、丸の内、八重洲の発展とともに歩んできました。今後いっそうの躍進が期待される地域にあって、増岡組もその役割を広げ、次代へ向けて邁進します。